織物が無い「インド美術史」(6):サータヴァーハナ朝
前回に引き続き、織物を含まない既存の「インド美術史」について紹介していきます。今回はサータヴァーハナ朝及びポスト・サータヴァーハナ朝(ヴァーカータカ朝)を取り上げます。
サータヴァーハナ朝は、紀元前1世紀頃から紀元後2世紀にかけて季節風貿易によって南・西インドで勢力を拡大した王朝です。4~5世紀に北インドを統一していたグプタ朝より前の時期に当たりますが、仏教美術が北から南に伝わったという点を考える上では、グプタ様式を理解した上でサータヴァーハナ朝の美術を見る必要があります。
サータヴァーハナ朝の時代に栄えたアーンドラ地方にある都市アマラーヴァティーには、数々の浮彫や仏伝図などが残されており、一連の作品はアーンドラ美術と呼ばれています。
特に酔象調伏図は有名で、これは異時同図法を用いて「暴れる象」と「釈迦に調伏される象」を表現した仏伝図です。異時同図法は異なる時間に起こった出来事を一つの構図に表現する事で、絵巻物などで典型的に見られます。アーンドラ美術は象徴表現と仏像が共存する傾向があり、これは北インドの影響が強いと言われます。アーンドラ美術は、ナーガージュナコンダからスリランカ、東南アジアにまで仏像制作に影響しています。
但し、この時代においてもサータヴァーハナ朝時代とポスト・サータヴァーハナ朝時代では様式が異なります。
サータヴァーハナ朝が衰退するまでの紀元後3世紀までの時代にデカン高原西北部に造られた寺院を前期仏教石窟寺院と呼び、ストゥーパを祀ったチャイティヤ窟(バシリカ建築に比せられる馬蹄形プランを持つ石窟)や、僧侶が居住するヴィハーラ窟(広間の周囲に房室を配列した方形プランを持つ)が典型的です。この時代は仏像不表現の伝統が主流でした。
サータヴァーハナ朝が衰退後に興ったヴァーカータカ朝時代には、北インドのグプタ朝との交流が積極化し、デカン地方が活性化しました。この南北インドの交流によって生まれた寺院様式を後期仏教石窟寺院と言います。ストゥーパには仏立像を刻んだ仏龕(ぶつがん)が設けられるようになり、ストゥーパと仏像が同様に礼拝されるようになりました。代表的なのはアジャンター石窟群の壁画で、グプタ様式の絵画が面得られており、同様の表現は法隆寺金堂壁画にも見られます。
pracyaの手紡ぎ手織物カーディーのインドストールも宜しくお願い致します。
参考文献
[1] 金子典正編(2013)『芸術教養シリーズ4 朝鮮半島・西アジア・中央アジア・インド アジアの芸術史 造形篇II』幻冬舎
[2] 宮治昭(1981)『インド美術史』吉川弘文館〈宮治昭(2009)『インド美術史』吉川弘文館〉
関連記事
-
-
クマーラスワーミーとガンディーの影響
クマーラスワーミーとアーツ・アンド・クラフツ運動 モリスの思想の影響を受けたクマーラスワーミー(1
-
-
インド織物が人気過ぎて輸入禁止に
17世紀から多数のインド織物が西洋にもたらされ、上流階級を中心に空前のキャラコブームが起こるわけです
-
-
美術史から無視されていたインド織物
pracya(プラチヤ)ではインド織物史を以下の7回に渡って整理してきましたが、インド美術史全体に織
-
-
インド織物の歴史:(4)東インド会社の交易と西洋でのキャラコブーム
ポルトガルとの香料貿易 1498年にポルトガル人のバスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに至り、ヨー
-
-
織物が無い「インド美術史」(7):中世
前回に引き続き、織物を含まない既存の「インド美術史」について紹介していきます。今回は中世のインド美術
-
-
グプタ様式に大きな影響を与えたヒンドゥー教
織物が無い「インド美術史」(5):グプタ朝 からリンク グプタ朝時代はヒンドゥー教の基盤が出来
-
-
インド織物の歴史:(7)インド独立への道と現代の織物業
インドの民族的自覚 イギリスのインドでの圧政が続く中、インド民族はイギリスに抵抗し、19世紀半ばに
-
-
織物が芸術になった時
織物は芸術か 「織物は芸術であるか否か」という問いを立てれば、どう答える人が多いでしょうか。「クラ
-
-
ブータ文様からペイズリー文様へ
ペイズリー模様の項でペイズリーのルーツとして大まかに見て「生命の樹信仰」説と「模様の形態」説がある事
-
-
クマーラスワーミーの職人論
モリスの影響を受けてアーツ・アンド・クラフツ運動に参加していたクマーラスワーミーはインド織物の美的価
- PREV
- グプタ様式に大きな影響を与えたヒンドゥー教
- NEXT
- 織物が無い「インド美術史」(7):中世